P--1315 P--1316 P--1317 #1自力他力事 自力他力事    長楽寺隆寛律師作 念仏の行につきて 自力他力と いふことあり これは極楽をねかひて 弥陀の名号を となふる人の中に  自力のこゝろにて 念仏する人あり まつ 自力のこゝろといふは 身にも わろきことをはせし 口にも  わろきことをは いはし 心にも ひかことをは おもはしと 加様に つゝしみて 念仏するものは こ の念仏のちからにて よろつのつみを のそき うしなひて 極楽へ かならすまいるそと おもひたる人 をは 自力の行といふなり 加様に わか身を つゝしみ とゝのへて よからんと おもふは めてたけ れとも まつ 世の人をみるに いかにも〜おもふさまに つゝしみえんことは きはめて ありかたき ことなり そのうへに 弥陀の本願を つや〜と しらさるとかのあるなり されは いみしくしえて  往生する人も まさしき本願の極楽には まいらす わつかに そのほとりへ まいりて そのところにて  本願にそむきたる つみを つくのひて のちに まさしき極楽には 生するなり これを 自力の念仏と は まうすなり 他力の念仏とは わか身の をろかに わろきに つけても かゝる身にて たやすく  この娑婆世界を いかゝはなるへき つみは 日々に そへてかさなり 妄念は つねに をこりてとゝま P--1318 らす かゝるに つけては ひとへに 弥陀のちかひを たのみあふきて 念仏をこたらされは 阿弥陀仏  かたしけなく 遍照の光明を はなちて この身を てらし まもらせたまへは 観音勢至等の無量の聖衆  ひき具して 行住坐臥 もしはひる もしはよる 一切の とき ところを きらはす 行者を護念して  目しはらくも すてたまはす まさしく いのちつき いき たえんときには よろつのつみをは みな  うちけして めてたきものに つくりなして 極楽へ ゐて かへらせ おはしますなり されは つみの きゆることも 南無阿弥陀仏の願力なり めてたきくらゐを うることも 南無阿弥陀仏の 弘誓のちから なり なかく とをく 三界をいてんことも 阿弥陀仏の 本願のちからなり 極楽へまいりて のりをき ゝ さとりをひらき やかて 仏にならんすることも 阿弥陀仏の 御ちからなりけれは ひとあゆみも  わかちからにて 極楽へまいること なしと おもひて 余行をましへすして 一向に念仏するを 他力の 行とは まうすなり たとへは 腰おれ 足なへて わかちからにて たちあかるへき方もなし まして  はるかならんところへ ゆく事は かけても おもひよらぬ ことなれとも たのみたる人の いとおしと  おもひて さりぬへき人 あまた具して 力者に 輿をかゝせて むかへにきたりて やはらかに かきの せて かへらんする 十里二十里の道も やすく 野をも 山をも ほとなく すくる様に われらか 極 楽へまいらんと おもひたちたるは つみふかく 煩悩もあつけれは 腰おれ 足なへたる 人々にも す くれたり たゝいまにても 死するものならは あした ゆふへに つくりたるつみのをもけれは かうへ P--1319 を さかさまにして 三悪道にこそは おち いらんする ものにて あれとも ひとすちに 阿弥陀仏の ちかひを あふきて 念仏して うたかふこゝろたにも なけれは かならす〜 たゝいま ひきいらん する時 阿弥陀仏 目の前にあらはれて つみといふつみをは すこしも のこる事なく 功徳と転し か へ なして 無漏無生の 報仏報土へ ゐて かへらせ おはしますと いふことを 釈迦如来ねんころに  すゝめおはしましたる事を ふかくたのみて 二心なく 念仏するをは 他力の行者と まうすなり かゝ るひとは 十人は十人なから 百人は百人なから 往生することにて さふらふなり かゝる人を やかて  一向専修の 念仏者とは まうすなり おなしく 念仏をしなから ひとへに 自力をたのみたるは ゆゝ しき ひかことにて さふらふなり あなかしこ〜          [寛元四歳{丙午}三月十五日書之]                         [愚禿釈親鸞]{七十四歳} P--1320